進路指導、就職指導は、一生の問題か?

数日前に坂上忍さんが司会で教育問題を極論で話し合うという番組がありました。


あばれる君が「教師の給料を2倍に」とか、関根麻里さんが「6年生で進路を決めるようにする」など、極論で教育問題を話し合っていました。


私は少し前までは、この手の番組はイライラするから見なかったんですが、最近は「そうそう大変よねぇ」ぐらいの軽い感じで見るようにしてます。


自分が考えていることを、丁寧に言語化していて、考えの手助けにもなるので。


その中で教師の仕事はブラック企業だという事例が挙がり、司会の坂上さんが「ここまでとは、、、」と驚いていらっしゃいました。


まあブラックですよね。毎日、朝は1時間半、夕方は2時間程度の時間外勤務なんて当たり前ですし、月に80から100時間は残業するのが普通になってきてます。

休日も次の授業のための研究や研修会に出席することもありますし。


まあ、それは置いといて。


その仕事時間の中で高校の先生が「進路指導や就職指導は一生の問題だから、、、、」とおっしゃっていました。


18歳の進路や就職での失敗って、一生の問題か?

現代で1つ目の会社で最後まで勤め上げる人は、どれぐらいでしょうか?

そして、大学であろうが、専門学校であろうが、そこまで大事であろうか?

こんな選択肢もあるけど、行き詰まったら、こんな風に変更もできるよと教えてあげた方がよくないか?


私も35歳まで働いてはいましたが、一生続けられる仕事ではなかったし、そこから先生の道に入ったので、1からのスタートでした。


高校以降の進路も目的があるなら、ここがいいよ。特にないなら、マルチな使い勝手がいい、この大学とか。


たかだか20歳の失敗が一生と考える方がしんどいと感じるのは、私だけかなぁ?

遠足でした

本日、遠足でした。


担任にとっては、遠足の日は全く落ち着きません。


まず、よく遅刻する子がちゃんと来るのか?欠席連絡がないと、出発することもできないんですね。


出席確認が終わると、誰かが駅までダッシュして、切符を買いに行きます。それが滞ると、駅で子どもの大渋滞が起こります。


続いて、子どもがちゃんと歩けるかどうか、電車の中での態度。他校との関係性。怪我をした子がいれば、治療か、もしくは帰るか。気分が悪くなれば、少し休憩させて、後から合流するのか。


色んなことを考えながら、即座に判断。100人規模の学年なら、大人6人ぐらいで引率します。


私の学年は3クラスなんで、3人の担任の阿吽の呼吸で進めていきます。

そういう意味では、我が学年団は、なかなかまとまりのある学年です。個人の判断で動いて、最終的に学年全体が動いていくので。


自慢話は置いといて、遠足での疑問が一つ。


電車に乗りました。ほとんど乗客が乗っておらず、ガラガラ。子どもが立っている方が邪魔になるぐらい。


そんな時、あなたが担任なら座らせますか?


子どもは元気だから座らない。これって結局、座らせたら文句言われそうだから、とりあえず立っとけとルールに縛っているようなもんじゃないですか?


空いていたら座る。他の乗客が乗ってきたら、席を譲る。体調の悪い子は、座ったままにしておく。


それを子どもたちで判断させて、それがどうだったか考えさせたらいいと思うんですが、、、


遠足は社会性や公共の感性を養う場であるとするなら、一つのルールに従わせるということは、もう古いと思います。


まあ、電車の乗り方ぐらいは家庭で教えておくのが普通だと思いますが、、、

時代遅れの教科書

私が小学生だった頃は、もう30年前。


その時とは教科書も、随分と変わっています。


算数は、より理論的に難しくなっています。計算方法よりも、なぜその考え方になるのか。様々な考え方から、どの考え方がより最適か。

そんなことを考えるようになってきます。


今回は、国語の教科書のことですが、ホントに時代遅れなんですね。


新聞のことを学ぶんですが、教科書の一文に「新聞はより多くの人に、速く情報を伝達できるものです。」「新聞は生活の中に身近にあるものです。」とあります。


絶対に嘘ですよね?


今は新聞よりもネットの方が、速く、多くの人に伝達できます。

私のクラスは、新聞をとっている家庭は、3分の1です。


時代が変化するとともに、教えることも、教材も変えていかなければいけないのに、遅れています。


なぜなら!!


教科書を決める人は、みんなで部屋にこもって決めているからじゃないんですか?


新聞やネットのメリット、デメリットを!それぞれで学んだ方が意味あるじゃん!!

「学ぶ」と「勉強する」の意味

「勉強しなさい」

 

誰もが言われたことのある言葉ですね。

やる気が無くなる魔法の言葉でもあります。

 

「勉強」と辞書で引くと、「学問や学芸を学ぶこと」とあります。

でも続けて読んでいくと、由来のところに興味深いことが書いてありました。

 

「無理なことを続けてする」「イヤイヤだけど、すること」

 

大阪商人の「勉強しますわ」のように、値引きするのは嫌やけど、無理させてもらいますという、イヤイヤすることが由来なんですよ。

 

ということは、「勉強しなさい」は、「嫌なことを、無理をしてしなさい」と言ってえうんですね。

 

だから、私はクラスでは学びなさいと言います。

 

「学ぶ」の由来は、「真似る」です。

 

上手い人や正しい考え方の真似をすることが、学ぶです。

 

つまり、モノマネ、パクるんです。

 

クラスでは作文のとき、書くのが苦手な子にこう言います。

「教科書の作文の言葉だけ変えて、文章はそのままモノマネしてみぃ」

図工では、「先生が描いた絵、作った作品をパクっていいよ」と、、、

 

こんなことを言うと、「もっと子どもの独特な感性を引き出さないと」「個性を大切にしないといけないから、オリジナリティを出して」と批判が起きそうですね。

 

そりゃあ、作文の得意な子はいいよ。図工好きな子はいいよ。嫌いな子や苦手な子はどうすんのさ?

いませんでしたか?何もできなくて固まってる子。

 

全ての学びの原点は、モノマネであり、パクリです。

 

メッシのドリブルを真似るサッカー少年。イチロー振り子打法を真似る野球少年。

憧れのピアニストと同じ曲を弾きたくて、真似する女の子。

 

そして、憧れの人の生き方やポリシーに共感して、その人間を真似ようとする人間。

 

他の国の技術を真似て、探求し、ようやく独自性を見出す日本の技術力。

 

クラスの子にとって、私は真似たいと思える人間かなぁ。

 

成功体験より、決断する体験

成功体験を重ねれば、やる気が出てくる。だから、子どもには成功体験をたくさんさせよう。

 

よく聞かれる言葉ですね。

 

確かに、幼稚園ぐらいまでは、それでいいと思うのですが、、、

 

小学生、特に4年生以降は何かを決断させる回数の方が大切なのでは。

 

何かを決断させる。ある程度、結果が出るまで、大人は見守る。良くても悪くても、結果を受け入れる。最後に、どうしてそうなったのかを一緒に考えさせる。それから、改良案や代替案へつなげる。


大人に近づけば近づくほど、成功より失敗の数が多くなりますよね。仕事でも、プライベートでも。


そうなら、数少ない成功を追いかけて何もしないよりも、多くの失敗を経験してる方が意味があると思うのですが、、、


ただし、子どもの失敗体験を経験させるには、ある条件が必要です。それは、、、


大人が失敗を許し、受け入れ、寄り添うこと。


これができないんですよねぇ。


経験か、危険か

台風で休みと思っていましたが、そんなに上手くはいきません。


電車が停まり、迂回しないといけなかったので、通勤がいつもの3倍かかりましたが、、、


それはいいとして、今は多くの小学校が作品展に向けて進んでいることでしょう。


それは我が小学校も同じです。


私の学年は、ステンシルという作品に取り組んでいます。詳しくはネットでも調べてください。


その中でカッターを使って、切り抜きをするんですが、ある男の子が一言


「先生、カッター使ったことありません」


んっ?なんて?あなた、11年も生きてたら、カッターぐらい持ったことあるでしょ?


と、ツッコミたくなりますが、グッと抑えて、周りの子にも聞きました。


「他にも始めてという人は?」


数人の手が挙がります。


そうか、今の子はカッター使ったことないんか、、、

ちょっと悲しくなりました。


たぶん、危ないとか、そんな理由で待たせてもらったことないんでしょうね。


確かに危険から守る必要はありますが、道具を使うことは危険になるのかな?と思いました。私の小さい頃は、お爺ちゃんがカッターやニッパー、ノコギリぐらい使えるようにならなあかん!という方針のもと、大体の使い方を覚えました。


もちろん手を切ることもありましたし、痛い思いもしましたが、それも経験として考えていました。


今は、すぐに危険を排除しようとする傾向にありますが、何が危険かも分からず、道具の使い方も知らないまま大人になる方が危険ではないでしょうか?

スタート

現役の小学校教員です。


日々の仕事の中で感じたことを中心に、自分の考えを書いていきます。


学校に勤めていますが、私自身、学校が全てではないと思っています。


学校以外にその子自身に合った環境があれば、それでいいと思います。


私が感じていることを綴れば、賛否両論、否の方が多くなることは分かりきっていますが、何か一石を投じて、読まれた方が何かを考えるキッカケになればと思います。